楽じゃない楽しい

荀子の説いた性悪説孟子の説いた性善説

 

元々みな善人になる素質を持っているか否かという話なんだろうけど、私は性悪説を信じている。

 

人間の本能的欲求が顕になる場面で、私は善を感じたことがない。

 

寧ろそこに理性的に抗う姿こそ美しく思える。

 

高校生の時、音楽の先生が「睡魔に屈せず抗おうとかくかくしている姿が美しい」と言っていたことも、とても印象深かった。

 

自分にとって都合のいい「楽」を選ぶことに抵抗する力は必要だと思う。

 

正義感や反骨心が強い私に「楽じゃなく楽しいを考えて」というソフトな言葉をくれたのは木兎だった。

 

すぐ無理だと諦める人に対しても、「時間とお金の使い方が下手なだけだ」「体力がないだけだ」と思ってしまうけれど、そんな時「ムリではなくムズカシイである」という言葉が過ぎって冷静になれる。

 

ちょっと調子に乗った時、謙虚な気持ちにさせてくれる。

ハイキュー!!を見るといつも性善説を信じたくなる。

 

バレーボールはもちろん、彼らの人間力と精神力の高さには毎度驚かされている。

 

私のようにマイナスからはじまって0に向かう努力をするというより、0から上へと羽ばたいていくように見えた。

 

嫌な人が一切出てこない。
ここにリアリティを感じない人もいるかもしれない。

 

だけど、苦しいことや耐えることが努力ではないし、楽しいことが楽ではない。

 

高校の卒部式で、先輩が「全国に行くためにはきつい練習を沢山しなきゃいけないって言われて」と泣きながら話をしていたのを覚えている。

 

なんじゃそりゃ。

楽しむのが怖かっただけだ。

 

ちょうどその頃オリンピックで、カーリングの選手が失敗したのに笑っている!と炎上したことも覚えている。

 

「自分たちを鼓舞するために笑っている。ミスしても苦しい顔をしないようにしている。」
そう言い切る選手はかっこよかった。

 

きついだけで頑張った気になりたくない。

 

嫌な人がいなくても自律できる強さを身につけたい。

愛とはなにか

 

愛とはなにか

 

愛ゆえに愚かで、そして愛ゆえに儚く美しい人間にとって永遠のテーマ。

 

振り返ってみれば、今までの私は、恋に恋をしていたり、想い出を美化していたり、いつも独りよがりだった。

 

稚拙にも、共通点や偶然が多いことを運命だと思っていたけれど、違いこそ受け入れ愛おしく感じるものだと思うようになったのは最近のこと。

 

「好きな食べ物が一緒だ」より、「人参は嫌いだけど、あなたが好きなら食べてみよう」と思えるような。

 

凝り固まった価値観を溶かしてくれるような、狭まっていた視野をぐっと広げてくれるような、そんな影響を受けられたら幸い。

 

 


昨日、ごま団子を3人前頼んだんだけど、1人前しかこなくて

 

残りの2人分を待って、やっと揃ったから、一番最初にきたものを取ろうと思っていたの。

 

そうしたら友達が「一番最初にきたやつは冷えているだろうからみんなで分けよう」って言ったのを聞いて驚いた。

 

これ、愛だ。

 

自分を犠牲にするよりも愛だ。
私の中でストンと落ちるのが分かった。

 

昔、お母さんの分だけおかずがなかったり、「いる?」って聞いた時「いらんけん食べり」って言われるのもあんまり嬉しくなかった。

 

ピノでも雪見だいふくでも、「いる?」って聞いた時「いる!」って返ってきた方が嬉しい。

 

自分が好意でしていることも、ちょっとずつ心をすり減らしてしまう。

 

愛とはそのものの価値を認めること。
本当に相手のことを思うのなら、相手に価値を認められた自分をも尊重すべきだ。

 

自分を蔑ろにしていたら、他人からも蔑ろにされてしまう。

私はそうならないために、強くありたい。

 

満員電車でつり革も持てずに他人に体重を委ねる人が数多の中で、私は絶対に自分の足でしっかりと立っていたい。

 

つり革もまた体重を委ねるものではなく、時に自分を支えるものだから

 

私は掴むことなく、ただそこにあることが確認できていれば安心できる。

 

友愛と自己愛と、恋愛の話。

 

なにかへの憧れ

 

なにかへの憧れ

 

「憧れているひとはいる?」
と聞かれると答えられない。

 

あんまり自分で言いたくはないけど、
私は変わり者だし思想が強い。

 

他人に強要することはないけど、自分はこうするっていうのが、昔からはっきりとしている。

 

だからこそ人を受け入れる許容量のない子供の頃は、よく仲間はずれにされていたんだと思う。

 

オリジナルでいたいというより、色んなものに影響を受けて、色んな要素で構成されていれば、それは自分らしさなんだと思う。

 

おまけに私は飽き性で、誰かの背中を追いかけ続けるというのが得意では無い。

 

吹奏楽をしていた時も、先輩の音色より、百回に一回だけ出る自分の綺麗な音色が好きだった。

 

有名なカメラマンの写真より、百枚に一回だけ撮れる自分の綺麗な写真が好き。

 

時折美しい言葉には陶酔するけど、言い回しを真似ようとは思わない。

 

これからもきっとずっと目標は定まらないと思う。

 

憧れるって相手との境界線をひくようなもので、ずっと近づけない様な気さえする。

 

この私の「憧れ」は正しい意味ではない。

 

そもそも憧れとは

ある人や物事に対して、強く心引かれ、その存在や状態を自分自身に求める心情を表す言葉

らしい。

 

強く心引かれ、引かれっぱなしで

その存在や状態を自分自身に求めることがないのかもしれない。

 

言わば「憧れそこない」

 

でもそれでもいいんじゃないかなぁ。

 

「こうなりたい」が定まっていなくても、自分なら半端な判断はしないだろうという信頼があれば、それに応えるプライドがあったら、いいんじゃないかなぁ。

 

そんな憧れそこないな私が、ある時急に憧れを見つけても、それはそれで素敵だね。

 

そんな運命的な出会いを探してる。

相談ってなんのため

 

相談ってなんのため

 

私は人に相談するのが苦手だ。

 

先に書いておくと、
「私は自分から相談するのが苦手だから聞き出して欲しい」という話ではない。

「相談することは私に必要か?」という話だ。


勿論、仕事のことで上長に相談することは出来る。
基本リモートで働いているため、尚更業務上の報告、連絡、相談は欠かせない。

 

携わる人が、あまり私情を挟まず真剣に向き合い、それなりに確保された時間を使って解決しようとする。

 

ありがたいことに、自分の力で行き詰まるとフォローしてくれる私の職場環境では、仕事上の問題は解決しやすいことが多い。

 

そのため、私にとって解決しづらい問題は、仕事外で起きる。

 

「自分ではどうしようもない」のに苛まれるから、自分なりに落ちどころを見つけたり、割り切ったりしなきゃいけない。

 

それが5年、10年と続くとかなり苦しくなる。

 

そこに正しさは求められていない。
寧ろ正しく対処しようとすればするほど、悩むことになる。

 

私にとって相談することはあまり効果的ではなかった。


それでも、最近分かったことがある。

 

人の相談に乗ること。

それは自分が人に相談することよりも、遥かに気が楽になることだった。

 

自律神経が乱れやすい。
これは先天的なもの。

精神的に強い。
これは後天的なもの。

 

自分なら大抵の問題は解決できるだろうという自負と、友達を愛している自信があった。

 

とどのつまり、誰もが人に相談することで楽になるわけではなく、人に相談される方が楽になる人もいるということ。

 

無理に人に相談しなくてもいい。
そして、相談することに引き目を感じて我慢しなくてもいい。

 

ある物事にフォーカスするのではなく、普遍的に新しい価値観を取り入れることで、いつか自分を助ける材料になるかもしれない。

 

その為に色んな体験をしたり、色んな人の意見を聞けたらいいなと思う。

 

だからみんなと沢山会いたいし、沢山話したいです。アイラヴユー!

「かわいい」ってなんだろう

 

「かわいい」ってなんだろう。

私は定期的にこのことについて考える。

 

私は自分がかわいくてだいすきだけど、客観的にはそんなにかわいくない。

それは生きてきた中で、嫌という程思い知っている。

 

人はきっと出会った瞬間に「かわいい」だとか「かっこいい」だとかを印象として残すんだろうけど、そこの基準はどこにあるんだろう。

 

「かわいくない」に分類された人間が「かわいい」になるためにはどうすればいいんだろう。

 

私は母と妹が所謂「かわいい」に分類されるタイプだった。

 

妹には「かわいいね〜」と言い、私には「スタイルがいいね〜」と言われることも

授業参観で、「え?○○さんのお母さん?」って驚かれることも多かった。

 

可愛くて、おまけに心から優しく親切で、小学校ではクラスの半分の男の子が好きになるようなタイプの母や妹を持ちながら、私は顔が原因でいじめられているなんて滑稽だった。

 

例え私の方が、背が高くても、勉強が出来ても、絵が描けても、足が速くても、その溝は埋まらなかった。

 

そして何故か仲良くなる友達はみんな「かわいい」タイプだから、必然的に一緒にいる私は「かわいくない方」だった。

 

どう見えているのかが気になって鏡を見ながらご飯を食べた。

画面の中だけではかわいくなりたくて、写真写りだけが異様によくなった。

 

顔に囚われないようにしようとすればするほど、顔に囚われてしまう。

そんな自分にも腹がたった。

 

私から変わらなきゃいけなかった。

私から「かわいい」の定義を広げる。

 

私の「かわいい」と世間の「かわいい」は違う。

私が「かわいい」と思っても、世間では「かわいい」とされていなかったりすることもあった。

 

芋から垢抜けるだとか、パーソナルカラーとかで、「かわいい」と言われる人に近づけていくだけが正解なのだろうか。

 

「かわいい」とされる女の子を「かわいい」と言うことは、もっと「かわいい」の定義を狭めてしまうことになるんじゃないかとも思った。

 

だから私は世間の「かわいい」に入るために努力するのではなく、自分が自分にとって「かわいい」であるために努力する必要がある。

同じ土俵に立たない。

 

とはいえ、世間の「かわいい」を諦めるのは難しい。

だって好きな人が出来た時は、きっと「かわいい」と思われたいと思ってしまうから。

 

でも「かわいい」を追い求めてしまうと、私はずっと「かわいい」にはなれなくて、やっぱり落ち込んでしまうと思う。

 

 

人に「かわいい」って言われることは滅多にないけど、最近初対面のおばあちゃんに「お綺麗だこと」とか「綺麗な方ね」と話しかけられることが多い。

 

それは知らない男の人に「かわいい」って思われるよりずっとずっと嬉しい。

 

私の「かわいい」はいつか誰かにとっての「かわいい」、または「綺麗」になるかもしれない。

 

だから世間から見てどう思われようと、私にとっての「かわいい」が好きな人の「かわいい」だったら嬉しいね。

 

いじめられっ子はなんでも出来る

 

いじめられっ子はなんでも出来る。

人に頼らず、自分でなんとかするしかない環境に慣れている。

 

例えば、背中のチャックを自分であげられる。

どの食べ物も好き嫌いなく美味しく食べられる。

虫だって平気。蚊もゴキブリも逃がす。

 

小さい時からよくいじめられていた。

幼稚園の時は「ご飯を食べるのが遅いから来ないで」と仲間はずれにされることが多かった。

 

人よりちょっと感受性が豊かで、嫌われ者の虫や野菜を、自分がされているのと同じように排除するのが嫌なんだったと思う。

 

とはいえ、そんなに派手ないじめではなかった。

キャラクターのキーホルダーの腕を折られたり、仲間はずれにされたり、物を隠されたり。

 

印象的だったのは、小学校二年生の時に「かごめかごめを百回やったら、中の人消えるらしいよ」って言われて実験台になったこと。

「消えないじゃん」と言われても涼し気な顔をしていた彼女は、他の子と比べて随分大人びていたのだと思う。

 

無理に集団でいてもそんな扱いを受けるから、一人でいることが多くて、本を読むことや、絵を描くことがだいすきになった。

帰り道には、お母さんにお花を摘みながら帰った。

 

 

そして人を見る目を養った。

表情と笑い方を見れば、どんな学生時代を送っていたか分かる。どんなに隠したっていじめられっ子には分かる。

 

だから彼女から好かれている人たちよ。

彼女はあなたの学生時代を知らないかもしれないけれど、あなたが大切にしているものを守るために、きちんと過ごしてきたことを知っている。

 

 

やがて、いじめられっ子はいじめられなくなった。いじめっ子になることもなかった。

人に笑われるんじゃなくて、人を笑わせられるようになった。

 

 

なんでも出来ることは彼女にとってポジティブなことではないけど、ネガティブなことでもない。

 

福岡から上京し営業職として働いた。

ひとり暮らしも大したことはない。

 

体力があって力も強い。握力も40kgはある。

背も高いから高いところに手が届く。

テレビやプレイヤーの接続、家具の組み立ても説明書がなくても出来る。

大抵の事は自分で解決できる。

 

小さくて力が弱くて、甘え上手な女の子と比べると、可愛げはないと思う。

 

だけどその分、人を助けられると思う。

 

きっと。