「かわいい」ってなんだろう

 

「かわいい」ってなんだろう。

私は定期的にこのことについて考える。

 

私は自分がかわいくてだいすきだけど、客観的にはそんなにかわいくない。

それは生きてきた中で、嫌という程思い知っている。

 

人はきっと出会った瞬間に「かわいい」だとか「かっこいい」だとかを印象として残すんだろうけど、そこの基準はどこにあるんだろう。

 

「かわいくない」に分類された人間が「かわいい」になるためにはどうすればいいんだろう。

 

私は母と妹が所謂「かわいい」に分類されるタイプだった。

 

妹には「かわいいね〜」と言い、私には「スタイルがいいね〜」と言われることも

授業参観で、「え?○○さんのお母さん?」って驚かれることも多かった。

 

可愛くて、おまけに心から優しく親切で、小学校ではクラスの半分の男の子が好きになるようなタイプの母や妹を持ちながら、私は顔が原因でいじめられているなんて滑稽だった。

 

例え私の方が、背が高くても、勉強が出来ても、絵が描けても、足が速くても、その溝は埋まらなかった。

 

そして何故か仲良くなる友達はみんな「かわいい」タイプだから、必然的に一緒にいる私は「かわいくない方」だった。

 

どう見えているのかが気になって鏡を見ながらご飯を食べた。

画面の中だけではかわいくなりたくて、写真写りだけが異様によくなった。

 

顔に囚われないようにしようとすればするほど、顔に囚われてしまう。

そんな自分にも腹がたった。

 

私から変わらなきゃいけなかった。

私から「かわいい」の定義を広げる。

 

私の「かわいい」と世間の「かわいい」は違う。

私が「かわいい」と思っても、世間では「かわいい」とされていなかったりすることもあった。

 

芋から垢抜けるだとか、パーソナルカラーとかで、「かわいい」と言われる人に近づけていくだけが正解なのだろうか。

 

「かわいい」とされる女の子を「かわいい」と言うことは、もっと「かわいい」の定義を狭めてしまうことになるんじゃないかとも思った。

 

だから私は世間の「かわいい」に入るために努力するのではなく、自分が自分にとって「かわいい」であるために努力する必要がある。

同じ土俵に立たない。

 

とはいえ、世間の「かわいい」を諦めるのは難しい。

だって好きな人が出来た時は、きっと「かわいい」と思われたいと思ってしまうから。

 

でも「かわいい」を追い求めてしまうと、私はずっと「かわいい」にはなれなくて、やっぱり落ち込んでしまうと思う。

 

 

人に「かわいい」って言われることは滅多にないけど、最近初対面のおばあちゃんに「お綺麗だこと」とか「綺麗な方ね」と話しかけられることが多い。

 

それは知らない男の人に「かわいい」って思われるよりずっとずっと嬉しい。

 

私の「かわいい」はいつか誰かにとっての「かわいい」、または「綺麗」になるかもしれない。

 

だから世間から見てどう思われようと、私にとっての「かわいい」が好きな人の「かわいい」だったら嬉しいね。