私の見えている世界は狭い。
人間が辛くなるのは視野が狭まっている時だ。
何かを自分だけの基準で判断することはよくない。
だから、先述したものも厳密に言うと
「私は、人間が辛くなるのは、視野が狭まっている時だと感じている。」
自分の基準で当てはめて、ばさりと切ってしまうと、自分を肯定してくれる人しか集まらない。
そして、自分の考えはみるみると固まってしまう。
ここに対する恐ろしさのようなものを、最近感じることが多い。
世界は広いのに、自らで狭めてしまってはいないか。
意見の合う、仲のいい友達だけで固めていたその小さな世界は、かつては居心地が良かったけれど、自分が成長できる環境ではないと思う。
例えば、私は自分の考えを言語化できない人と関わるのが好きじゃない。
特に、言語化出来ないのにも関わらず、そのむしゃくしゃした気持ちを怒りとして放出するタイプには嫌悪さえ感じる。
そういうタイプはとても心が弱い。
それを受け入れるだけの許容量がないから、自分の心を守るために、反省することを拒絶するのだと思う。
どうやったら割り切れるか。
私は正直、見下すことしか出来なかった。
言語化出来ないならまともに取り合う必要がない。理解しようと思う必要がない。
しかし、過去の自分に言いたい。
その自分の見ている側面だけを見て、その人のことを判断するような傲慢な人間になるな。
昔ファミレスでアルバイトをしていた時、クレーマーには「この人は昨日母親が亡くなった」といったように、想像で同情してしまうような情報を補足していた。
それに近いと思う。
その人の言動が苦手だなと思っても、絶対自分よりも長けている部分があるはず。
例えば、言語化するのは上手くなくても、歌や芝居、ダンス、写真などでは表現出来るのかもしれない。
芸術において、寧ろ直接的な言葉にするのは野暮だという場面はやまほどあるだろう。
言葉が武器では無い相手に対して、論破して、糾弾した先に何がある。
様々な人間が共存していく中で生きていくためには、謙虚に、新しいものを受け入れ、進化していかなければならない。
私はそれを生き様で教えてくれる父親が欲しかった。