やまとたけるのみこと

夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月宿るらむ

花束のかわりにメロディーを

 

ちまちまと綴っていたブログも、

1年ほど更新が絶えた。

 

それはきっと私が寂しくなかった証拠で、今を懸命に生きていた証拠で、そして何より人と向き合ってきた証拠だ。

 

私が本を読むのは、心が満たされない時だった。

文章を書くのは、何か訴えたいことがある時だった。

 

何がきっかけでもない、ただ漠然とした、

空に向けた婉曲的な言葉。

 

 

思い返せば、上京して多くの人と関わるようになってから、私のポリシーであった丁寧な関係の構築が出来なくなった気がする。

 

いや、出来なくなったというのには語弊があって、意図的に雑にしていたのかもしれない。

 

まだ未熟な私は、その雑さこそが、私の肩の力を抜くものだとばかり思っていた。

 

しかし、実行してみれば、それは寧ろ私には負荷のかかるものだった。

負の連鎖は続き、ありきたりでチープな言葉でのコミュニケーションが続く。

 

私が求めていたものは、そうではない。

もっとやわらかく、優しく、上品なものだ。

 

簡単に済ませようとするとつけが回ってくる。

ファストフードもフードコートも苦手なのに、あまりにも無理をしすぎた。

野菜もしっかりと食べる健康な習慣に、体が慣れていたのだ。

 

 

 

そんな曇りがかった生活の中、急に現れた太陽

 

 

私の人生に必要な栄養で、光

 

それはメロディにのってやってきて

私の心にまたたく間に花を咲かせた。

 

敬遠していた清水翔太の曲も、彼がメロディーにのせれば忽ち心を潤す。

 

サビしか聞いた事のない曲も、思い入れができて、いつしか好きなフレーズまでできた。

 

音楽を愛し、音楽に愛された人だった。

 

でも、決して忘れてはいけない。

 

太陽に近付きすぎて身を焦がさぬよう。

それだけ留意して、手を伸ばす。

 

 

 

 

神のまにまに

 

天岩戸伝説では、洞窟に隠れてしまった天照大御神を鏡や神楽で誘い出し、光を取り戻したという。

 

 

湿度の高い憂い

 

バケツをひっくり返したかのような雨に萎縮して、今日は朝から雨戸を閉めたまま、一度も太陽の日射しを浴びていない。

 

ひとり暮らしをし始めてからというもの、

寝室も、リビングも、仕事部屋も全て一緒。

切り替えが難しいため、

寝ている間は雨戸をしめるようになった。

 

今思い返してみると、実家にいた時は睡眠の質なんて考えたことがあっただろうか。

 

隣の家のにわとりは、深夜であろうと二時間に一度なく。

にわとりなんて、朝なくものでしょう。

理想としては朝日が昇るのを知らせてくれる時のみ力を発揮してほしいところなのだけれど、なきたいなら仕方がない。

 

そして朝五時になると、小さな足音と鈴の音と一緒に猫がやってきて、その熱烈な視線で目が覚める。

布団に入れてくれと言わんばかりにこもった声で〝う〜ん〟と一度なくと、私は布団を持ち上げて迎え入れ、中で息が苦しくならないよう膝をたてる。

 

さらに六時になると、ご機嫌な足取りの犬が散歩の催促にくる。

散歩に行くのは母だったから私は応じず、ベッドの上から挨拶するだけではあったが、それはそれで嬉しそうだったから、自分が家族を起こすという使命感があったのかもしれない。

 

そんな毎日を繰り返していたら眠りは浅くなる一方で、流行った睡眠アプリなどもあてにならず、すぐにアンインストールしてしまった。

 

ところが、社会人になるとそんな幸せな喧騒もなくなり、夜は一度も起きないほどぐっすりと寝られる。

 

朝起きて雨戸をあけ、朝日を浴びるのが私のルーティンであり、切り替えのスイッチだ。

 

とどのつまり、雨の日は体が起きない。

 

朝日を浴びなければ、ずっと夜の延長のようで、心は夢の中にいるような気持ちで一日を過ごさなければならない。

 

…ふと、学生時代を思い出した。

雨の日は、教室の人口密度が高く、いつもと変わらないはずの電気が妙に明るく感じる。

 

学校にお泊まりにきた気分だった。

みんなで夜更かししているような気持ち。

 

しかしあの特別な高揚感も、今となってはなくなってしまった。

ただ狭い1Kにひとり、籠っている。

 

昔なら秘密基地みたいだとはしゃいだだろうに、

今となってはぼうっと高い天井を眺めるばかりで、やがて襲ってくる睡魔に負けて、怠惰な生活を送っている。

 

天気ひとつでこんなにも気持ちが左右されてしまう私はひとりでは生きられない。

 

勿論元より、ひとりで生きられると思ったことはない。

それにしても、自分はもう少し精神的に自律している人間だと思っていた。

 

結局、以前応援していたアイドルのライブ映像を流してモチベーションをあげる。

 

かつては依存から脱却するように離れたけれど、今度は自分の人生を応援するために、アイドルも応援したい。

 

これからも私は私らしくいるけれど、少しぐらついた時にエネルギーを貸してほしい。

そんな願いと希望を画面の向こうに込めて。

 

ネガティブは気質、ポジティブは意思

 

他人に強いることはせず、

ただ私のスローガンとして

 

例え根がネガティブでも

意志を持って、ポジティブでありたい。

 

ほんとうのさいわい

 

ほんとうのさいわいは一体なんだろう?

 

カンパネルラの純朴な問いに、私は答えることが出来ない。

 

24歳になった私は、ここのところ自分のことしか考えられなくなっていた。

 

もっとも連日目の当たりにする現実への嫌悪からかもしれないけれど。

 

きっと、もっと根本的なところにある。

 

物心ついた時から人間が薄ら嫌いで、動物が好き。

 

言葉を持たない動物相手に感謝をしているからと言って、何もかも許されていると思い違いをしている人間が憎い。

 

厚意ばかりで、相手が本当に求めているものではなく自分が相手に与えたいものばかりを押し付けるコミュニケーションばかり。

 

何か変えようと思っても、だからと言ってビーガンになれる訳でもない。

お肉を食べないとますます力が入らない。

 

物価が高くなっていく一方で、変わらない給料で生活し、適当なものに相応のお金をかけられない人間が哀れだ。

 

希望のない未来のことより、今安泰な道を選ぶ人間が愚かだ。

 

私もそんな人間に過ぎないと思うと、時々立ち止まっては悲観する。

それでもなんとか愛おしい人たちを思い出しては、人間が素晴らしいことを思い出す。

 

自戒と肯定の繰り返しで、すこし成長した気になるような、そんなことの繰り返し。

 

私はいつの間にか、自分のせいで傷付いていたのだ。

大きな枠で見ると、人間は罪深い種族であるし、小さな枠で見ると、私は未来どころか明日のことしか考えられない。

 

宮沢賢治がみんなのしあわせを考えている間、私は指の逆剥けを見つめていた。

 

私のほんとうのしあわせは、すべての動物が虐げられることなく、おだやかに暮らすこと。

 

ただ願うばかりで、人間が存在する限り、そんなことは実現するはずがないと分かっている。

 

私が何故、時折ネガティブになっては、こんなことをつらつらと書き始めるのかというと、私の原動力はいつでも反骨心からきているから。

 

私は根がポジティブな人間を心底信用出来ない。

 

嫌なことを忘れてしまって、ネガティブな感情を雑に扱うなんて勿体ない。

持っていて損はないし、いつか人のためになるかもしれないから大切に持っておく。

 

とはいえ、ネガティブなまま生きていけるほど周りに甘えてもいられない。

 

その場で悩むより、行動した上で対策を。

 

パンパンに詰められた予定も、それを人生のセーブポイントとしているから。

 

次楽しいことがあって、そのまた次に楽しみにしていることがある。

騙し騙し生きている、ささやかな延命治療。

 

それなら、美しいものを楽しめる審美眼だけは磨いておこうと思った。

 

柔らかでありながらも眩しいミモザや、出会いや別れの思い出を連れて春の訪れを知らせる桜も、

立ち止まって眺められるくらいの心の余裕を持っておきたい。

 

小説も、お芝居も、音楽も

あらゆる感情に優劣をつけずに、大切にしてきたからこそ楽しめるもの。

 

僕たちしっかりやろうねぇ。

 

大人になると君は

2024年が終わる頃、

そして2025年を迎えたそんな境目で

 

私は〝NANA〟と〝美しい彼〟に出逢う。

 

どちらも同性間の形容し難く

特別な関係を描いた作品だけれども

 

私はやっと、この作品が観れる気がした。

 

心当たりのある感情が、かつて私にもあった。

 

 

 

大人になるにつれて

感情の種類は増えそうだけど、

 

今の私の感情は随分シンプルで、

中高生の時の方がよっぽど複雑であった。

 

自分と相手がそれぞれ確立している今の方が

 

自分と相手の境界線があやふやで、大切にするということが、自分に取り込むことだったり、急に離れて気まずくなることだった

 

あの頃よりも、ずっと。

 

 

今となれば好きの種類は少なくて

恋か愛かで分類できる。

 

しかし、あの頃はそれ以外の感情が存在していた。

 

社会人になると、芸能人への熱烈な気持ちも、いきすぎた醜い想いも、すっかりわかなくなってしまった。

 

理性がきくというのは残酷だ。

頭で考えて、感情に対して適切に対処できるようになってしまった。

 

NANAも、美しい彼も

あの〝知っている感情の正体〟を

あまりにも丁寧に描きすぎていた。

 

友達が好きすぎて依存していたし、

相手が思い通りにいかなければ、不機嫌になっては、相手にどうにかしてもらおうと思っていたし

 

ただ感情を一方的にぶつけるばかりで、

相手の歩み寄りによって

コミュニケーションが成り立っていた。

 

私以上に仲がいい友達がいるのが耐えられなかったし、他の人と盛り上がっているのを見るのすら嫌だった。

 

自分のために何をしてくれるかが重要だった。

言葉に出すのはほんの一部で、ただふつふつと煮詰まった感情を私の中で育てるだけで、何も残らない。

 

その喪失感さえ、まるでドラッグの禁断症状のようで、至極安心するものだった。

 

 

 

 

 

そんな感情は大学生になるとはたりと消えた。

 

もう人に依存することはないし、

言いたいことははっきりと言葉にして言える。

 

全ての意見が一致することはないし、

すぐに諦めて、切り替えられる。

 

私は私で、相手は相手。

どんなに近付いても、交わることはない。

 

かつての稚拙で愛おしい感情は、これからもっとなくなっていくのだと思う。

当事者としては感じられなくなり、語り継がれゆく童話のように、ただ傍観するしかないのだろう。

 

少しずつ、子どもから大人になっていく。

 

そんな一般的には成長と捉えられるものに寂しさを覚えるだなんて。

 

今はない感情

 

でも、きっと死ぬまで憶えている。

 

かぷかぷ

社会人になって、人として成長しているものの、どんどんつまらない人間になっていることも自覚している。

 

人と違うことや、リスキーなことに憧れている訳ではない。

 

ただ、ほとんどの感情を言語化していることがすごくつまらなく感じる。

 

人を好きな気持ちとか、クリスマスが待ち遠しくてわくわくする気持ちとか

 

 

私はもっと、何にも形容しがたいあたたかな気持ちを持っていたはずでしょう。

 

クラムボンはかぷかぷ笑うけど、

かぷかぷの意味なんて誰も分からないでしょう。

 

そもそもクラムボンが何かなんて、

別に断定しなくてもいいでしょう。

 

私たちは根拠のないことに怯えすぎていると思う。

 

仕事であれば論理的な説明も裏付けも必要かもしれないけれど、それは私生活でも必要かしら。

 

もっと感覚的な話がしたい。

 

布団を干した後のお日様の匂いが、

ダニの死骸の匂いだなんてデマ

 

本当は太陽光で分解された布団の繊維の匂いらしい。

 

知識として知っておくことと、楽しむことは違う。

 

あれは私にとってお日様の匂いなんだ。

ぽかぽかとしたあたたかさと、ちょっと焦げ臭い感じがするのも、その時の思い出が蘇るのも

 

言葉では言い表せない。

 

小さい頃から夢の中だけで見る存在しない遊園地を、どう説明すればいいのか分からない。

 

大事なところは曖昧で、ただイメージとしてはくっきりあるもの。

 

誰にも伝わらなくても構わない。

結論がなくて、人によっては「で、なに?」みたいなことが本当は好き。

 

そんな私だけの感覚をもっと大事にしたい。

 

無題

 

小さな会社でたった一人で営業をしている私は、他社で働く友人の前でこそ「同期なんて憧れる〜」なんてワントーン高い声で言っておきながら、腹の底では、自分に同期がいないことの喜びを噛み締めていた。


勿論、私も人並みの協調性は持ち合わせている。

 

かつては団体競技で全国大会を目指し

来る日も来る日も練習に明け暮れていた。



お茶を飲みたい時に飲めない。

トイレに行きたい時に行けない。



そんな過度の集団行動をしていると、なんだか同じ苦しみを味わっている仲間と、一心同体のような気さえしてくる。

 

そんな奇妙な経験は私の宝だ。

もう二度と開けないパンドラの箱である。


「夢」「仲間」などの類は目に悪い。

サングラスをかけ、輝度を下げたからこそ見えるものもある。

 

光の中で目が慣れてしまえば、

夜空に広がる満天の星は見えない。

 

星は何年もかかって私たちの元に届くと言うけれど、今見ている星は何年前の星なんだろう。

 

一秒間に地球を七周半もしてしまう星に比べれば、私たちは随分ゆっくりと文明をつくってきた。

 

たかが人の一生でこの世の全てを知り尽くすことなど出来ないのに。

現代に生きる私たちは、この端末ひとつでいくらか知れた気になってしまう。

ここで傲慢様のお出ましである。

 

 

 

人のペースに合わせることが苦手だ。

 

一定の速さで歩き続けるより、時には空を見上げて走って、時には足元のアスファルトに咲く花を慈しむために立ち止まる。

まるで犬と散歩をしているかのような自分のペースが好き。

 

自分の中で処理をしなくていいものと

時間をかけてでも処理をしなくてはならないもの

 

人それぞれあるはずなのに

ペースを合わせてしまうことが恐ろしい。

 

効率化をはかり無駄が省かれると、

芸術や文学は二の次になってしまう。

 

確かに時間をかけた割に明確な答えは与えられないことは多いけど、心を豊かにするもの。

 

これらがおざなりになって、抽象的な話になると、意味が理解出来ない人が増えたと思う。

 

「○○は××だ」なんてチープなラベルを最初に貼っておかないと、文章の中から汲み取ることが出来ないのは情緒がない。

 

勿論、業務上の連絡を円滑にするための文面でのラベリングは必要な作業だと思う。

特に営業職はスピードとタイミングが重要なため、如何に理解しやすく提示するかによって結果が変わってくる。

 

だからこそラベリングするタイプが多い。

 

「○○さんあれでしょ!こういうの、 ××しちゃうタイプでしょ!」と何も面白くないのに一人で盛り上がっている。

否定する隙もなく、そんな彼に背を向けながら、きっと彼は、自分の知っている型以外の人間を知ることはないのだと悟る。

 

そんな彼にも分かるように、この文章にタイトルをつけるとしたら何だろう。

 

「営業職タイプが嫌いな営業の話」?

「人には人のペースがある」?

 

そんなものをつけた所で「結局何が言いたいんだ」と一蹴されて終わる。

何が言いたいか分からないものこそ文学なんだよ。

 

ここは私の聖域。

決して侵されることのない場所である。

 

 

かなしいおもいは


人よりちょっと嫌な目にあいすぎているような気がしていた。

今になっては、それが私にとって幸運なことであることだと分かるけれど、学生の時にはそんな風には思えるはずもなく。


でも、大人になれば分かる。

色んな感情を知っている分、映画やお芝居、歌や読み物が面白くなる。

芸術を楽しむためには、人よりマイナスな感情を
知らなければならない。

 

芸大生というのは何かと心に闇を抱えたがる。

闇を知らないと光すら描けないからだ。

 

嫌な思いというのは自分ひとりでは出来ない。

誰かに何かをされることで成り立つ。


それを若いうちに蓄積出来たということは貴重なこと。

 

私は選ばれたんだ。

 

ところで、愚痴というのは恐ろしい。

私は基本的に矛先と熱量が同じ人としかしないようにしている。

なぜならば、愚痴とは自分がどの程度のことで躓くのかを晒す行為だ。

 

自己解決力の不足を嘆くことは、ある意味自分と向き合っているのかもしれない。

 

本当はどうすべきなのか、本当は分かっているのに悩むなんて、すごく無駄に思えるけど

 

足が竦んで動けなくなるのも

意地になって力んで失敗するのも

 

どちらも人間らしくてかわいいじゃない。

 

美空ひばりも歌っています。